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平成31年3月6日 (水) 井上和彦 × 藤井厳喜

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首相 米の拉致重視を強調「金正恩氏も理解」と説明

米朝首脳会談は決裂していない

2019年 (平成31年) 2月27~28日 ベトナムの首都であるハノイで第二回目の米朝首脳会談が開催されました。

ある報道では、交渉が決裂したとも伝えていました。

しかし、果たして本当に決裂したと言えるのでしょうか?

もし、仮に米朝首脳会談が交渉決裂となるとアメリカと北朝鮮はどのような行動に出たと考えられるでしょうか?

アメリカのドナルド (Donald) ジョン (John) トランプ (Trump) 大統領は、北朝鮮にむけて軍事行動の準備を始めたでしょう。

一方、北朝鮮の金正恩 (キム・ジョンウン) 朝鮮労働党委員長は核開発の開発を宣言したいたはずです。

藤井厳喜さん
藤井厳喜さん
私は、膠着状態が続き現状維持で大したことは起きないでしょうと思っていました。

実際、終わってみるとその様になりました。

なぜ、北朝鮮はアメリカを読み誤ったのか?

今まで、北朝鮮はトランプ大統領の考えを巧みに読んで外交交渉を行っていました。

事前に実務者協議もやっていたはずです。

どうやら、北朝鮮側はトップ会談で押し込めばアメリカが妥協すると思っていた節があります。

しかし、どう考えても過去に使っていた核実験場だけを放棄するというだけで、アメリカは北朝鮮に対する経済制裁を解くことはありえません。

つまり、今回は北朝鮮はアメリカの考えを読み誤ったと考えられます。

一体、なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか?

藤井厳喜さん
藤井厳喜さん
私の仮説ですが、アメリカの情勢を見てわかりました。

同日に行われたマイケル・コーエン弁護士の議会公聴会

実は、まったく同じ日にアメリカでは議会公聴会が開かれていました。

その議会公聴会とは、トランプ大統領も元顧問弁護士を務めていたマイケル (Michael) コーエン (Cohen) 氏です。

つまり、トランプ大統領に対してロシアゲートの疑惑を暴露しようとしていたのです。

なぜなら、アメリカの民主党は米朝首脳会談のインパクトを消すために、わざわざ同じに日にぶつけてきたと思われます。

マイケル・コーエン弁護士の議会公聴会が開催され、発言内容はトランプ大統領に対する罵詈雑言でした。

しかし、肝心となるロシアとの共謀に関しては全面否定しました。

つまり、ロシアゲートに関しての疑惑は何もないことが証明されただけでした。

北朝鮮はトランプ大統領の立場が弱いと読み誤った

つまり、北朝鮮はトランプ大統領の立場が非常に弱いと思っていたのです。

きっと、トランプ大統領は成果が欲しいから妥協するのではないだろう、と思っていたのではないかと推測できます。

実は、その様なサインをアメリカのメディアや民主党が北朝鮮に送っていたとまで言われています

米朝首脳会談をベトナムで開催した理由とは?

第一回目の米朝首脳会談はシンガポールで開催されました。

そして、第二回目となる今回はどうして、ベトナムのハノイで開催されたのでしょうか?

ここにはアメリカから北朝鮮に向けてあるメッセージが送られていたと考えられます。

それは次の2点がポイントとなります。

  1. 一党独裁
  2. 中国とは対立

ベトナムは一党独裁の国家

ベトナムの正式名称はベトナム社会主義共和国です。

つまり、一党独裁という点では北朝鮮と同じなのです。

しかし、経済開放政策を行うことで発展を遂げています。

中国は対立している国家

現在のベトナムはアメリカとの関係も悪くありません。

しかし、同じ共産主義の国である中国とは対立しています。

藤井厳喜さん
藤井厳喜さん
つまり、ベトナムを見習ってこっちに来いと言う意味があったのです。

裏に動いている、金漢率 (キム・ハンソル)

2019年 (平成31年) 3月1日 金正男 (キム・ジョンナム) 氏の息子である金漢率 (キム・ハンソル) を擁立して新政府である、自由朝鮮が発足されたと報道がされました。

いかにも、タイミング的にみても様々なことが考えられます。

北朝鮮にとっては、完全に対立する政府になることは間違いありません。

井上和彦さん
井上和彦さん
後ろに一体誰がいるのでしょうか?

“正男氏の息子”動画公開 家族へ支援4カ国に感謝 (2017/03/08)


Kim Han-sol interviewed by Elisabeth Rehn (1/2)



米国防省 春の米韓合同軍事演習の「終了」を発表


米韓軍事演習を中止するアメリカにとっての言い訳

アメリカのトランプ大統領は自国の安全保障のために、メキシコとの国境の間に壁を建設しようとしています。

本当に、お金だけの問題で米韓軍事演習を止めようと思っているのでしょうか?

井上和彦さん
井上和彦さん
このままでは、韓国にいる米軍撤退に話がつながってくるのではないでしょうか?
居島一平さん
居島一平さん
わざわざ言わなくてもいいのに、トランプ大統領のTweetで「返済されない」という表現は凄いですね。

韓国はアメリカ側から撤退することを発言させたい。


蔡英文総統、日本に安保対話要請 本紙インタビューで初明言

台湾の蔡英文総統が日本に安保対話を要請!~産経新聞が独占インタビュー【ザ・ファクトFASTBREAK】


日米韓ではなく、日米台が重要となる

今、アメリカは台湾との国交に対してかなり踏み込んだ政策をとっています。

台湾関係法』や『台湾旅行法』制定したり、閣僚級の人物を派遣したりしています。

一方、日本の安倍晋三氏は内閣総理大臣としての立場があるため、直接動くことはできません。

しかし、実の弟にあたる (きし) 信夫 (のぶお) 衆議院議員が台湾係として活躍しています。


昭和の英雄が語る ~大東亜戦争・偉大なる記憶~

田中 (たなか) 三也 (みつなり) さんは、『彩雲のかなたへ―海軍偵察隊戦記』と言う本を出版されております。

田中三也さんは重巡洋艦『利根 (とね) 』に乗艦し、零式水上偵察機で機長を務めていらっしゃいました。

井上和彦さん
井上和彦さん
田中さんがいらっしゃらなかったら、米空母を撃破することはできませんでした。

偵察することは、戦争で作戦をたてる肝となる

戦争における偵察と言うのは、敵地に向かいただ様子を伺うだけではありません。

敵の情報となる次の様な情報を打電し後方の部隊に送らないといけません。

  • どの方角に?
  • どのくらいの距離に?
  • どの程度の規模の敵がいるのか?

これらの情報によって計画をたてることができるので、作戦の肝となります。

しかも、偵察機は編隊を組み群れで飛んで敵地に向かうわけではありません。

決められた方角に1つ機体だけが飛ぶ単機行動です。

そのため、敵に見つかっても見方にSOSを出すことはできない決死隊なのです。

愛機 零式水上偵察機

1942年 (昭和17年) 8月24日 第二次ソロモン海戦

1942年 (昭和17年) 8月24日 第二次ソロモン海戦が勃発した時、田中さんの部隊は『利根』の部隊とは別行動でした。

その理由は、田中さんの部隊が囮部隊になるためでした。

田中さんの部隊に攻撃をしてくるように、わざわざ敵地に向って行くことになりました。

しかし、あいにく天気が悪くて飛行機で飛び立つことができません。

そこで、上官から命令されます。

「どんな電報でもいいからとにかく電報を打って電波を出せ。」

田中さんは命令に従って、船に乗ったままの飛行機から電波を出しました。

すると、敵はその電波に引っかかり多数の敵の飛行機が向かってきました。

空母の『龍驤 (りゅうじょう) 』はあっと言う間に、田中さんの目の前で沈没させられました。

その時、初めて「戦争ってすごいな」という感想を抱かれました。

1942年 (昭和17年) 10月26日 南太平洋海戦

1942年 (昭和17年) 10月26日 南太平洋海戦『利根 (二号機)』に乗艦している、零式水上偵察機で偵察に向かった際、敵の航空母艦『ホーネット (Hornet) 』を発見しました。

その内容を電報で伝えます。

そして、敵の空母が攻撃されるのを生で見ていました。

あまりの嬉しいために見方の攻撃ばかりを見ていると「どこ見てんだ、他を見ろ」と怒鳴られ、棍棒で頭を叩かれたそうです。

田中さんが電報を見方を伝えたおかげで、沈没させることに成功しました。

その時の感想は「冥利に尽きる」と感じておられました。

 特攻隊に出れる理由

しかし、何も嬉しいことばかりではありません。

航空母艦に戻り、様々な情報が入ってきます。

その中に、何人もの自分の同期が死んでいることが判明します。

その時「あの戦いの中にいたんだなぁ・・・」と初めて知るのです。

そして「仇を討つぞ」と心に抱きます。

その気持ちが大きいがために、特攻隊への命令が下されてもすぐに行くことができたのだそうです。

普通に考えれば、特攻などに出れるわけがないとおっしゃっていました。

あ号作戦 命がけの低空飛行

田中三也さんは二式水上偵察機の『彗星 (すいせい) 』の乗って偵察に向かいます。

その時、森田さんは機長を務め電報を打つ役目で、操縦官を務めていた森田上飛曹でした。

この偵察は、あ号作戦の中の挺身偵察の役目があり、生きて帰ってくる見込みはありませんでした。

パプアニューギニアのアドミラルティ諸島付近で、敵を見つけることができました。

しかし、上空から見ていても敵が撃つ弾の煙が煙幕の役割を果たし、写真が撮れません。

何としても、田中さんはサラトガ (Saratoga) を見つけたいと思っていました。

中途半端に飛んでいると敵のレーダーに捕まってしまいます。

そこで考えたのが、プロペラの風で海面が模様ができるくらいの超低空で飛ぶことでした。

海面を這うように低空を飛ぶことで見つけられることがありません。

田中三也さんは死ぬつもりで港に突っ込む覚悟でした。

その低さはサガトラの飛行甲板よりも下になります。

それ程までに低空を飛ぶと、アメリカ軍の駆逐艦は弾を撃ってきません。

なぜなら、弾が味方に当たって犠牲になってしまう可能性が高いからです。

田中三也さんはそこを狙っていました。

その後、一気に高度を上げて田中さんは打電し味方に電報を送ろうとします。

しかし、田中三也さんは電報が打てません。

なぜなら、電報は真っ直ぐ飛んでいないと打てないからです。

敵の戦闘機が飛んでくるので、森田操縦官はかわすためカーブを描きながら飛行をします。

そこで、田中三也さんは森田操縦官に「我慢しろ」と叫んで、急いで電報を打ちました。

森田操縦官の手柄

田中三也さんは作戦が終了して報告に行きました。

その報告が終わると「長官からだ」と言って、短刀を握らされました。

その時の長官は豊田 (とよだ) 副武 (そえむ) 連合艦隊司令官でした。

しかし、田中三也さんはその短刀を森田操縦官に渡します。

つまり、森田さんはこの手柄は私ではなくお前の手柄なんだと言うことを言葉ではなく、行動で示したのです。

その時、森田操縦官は涙を流しておられました。

しかし、森田操縦官は潜水艦で本土に帰ってきてから、内地で戦死されました。

フィリピン リンガエン湾へ特攻せよ

田中三也さんは偵察第四飛行隊に所属していた時、他にも偵察第三飛行隊がありました。

飛行機は彗星が1機・零戦が3機あり、これで特攻隊を編成することが決まりました。

その時、田中三也さんは誰が行くのかと思いました。

その時、次のような命令が下ります。

「彗星は操縦員は偵三から、偵察員は偵四から」

つまり、田中三也さんの部隊から出さないといけません。

田中三也さんの特攻隊の葛藤

この頃、田中三也さんは兵曹長になったばかりでした。

司令官からは「田中、お前が部下を引っ張っていくんだぞ。よ~く、言い含めろよ」と言われます。

田中三也さんは誰を出すか悩んでしまいます。

今まで、たくさんの同期が特攻隊で出撃していきました。

特攻隊というのは生きるか死ぬかではありません。

「死ね」と言っていることと同じなのです。

田中三也さんの部下であった下士官4人の内から出さないといけません。

部下は「私を出してください」と言ってきます。

体当たりする目標まで、自分で決めてきます。

だからと言って「じゃあ、お前行け」とは簡単には言うことはできません。

田中三也さんは考えているうちに、同期のことを追いかけることを考え始めます。

そして、出した答えが「俺が行こう」と腹を決めました。

特攻隊の出撃が明朝へと延期に

田中三也さんは仲間と水で盃を交わした後、ヨレヨレの格好のまま彗星に乗り込みました。

エンジンをかけて調子が良く爆弾の信管も抜いた状態で、後は出撃を待つばかりでした。

しかし、零戦3機のうちの1機がエンジンの具合が悪いから待ってくれと言われます。

田中三也さんは彗星の中で10分程度待っていましたが、夕刻に突っ込む予定がだんだんと時間がなくなってきています。

今から出撃しても到着した頃は真っ暗なので、明日の朝早くに行ってくれと言われます。

田中三也さんはエンジンを止め彗星から降りた時、次の事を考えます。

「明日の朝まで、まだ生きていかなきゃならんのか・・・」

せっかく、死ぬ覚悟を決めたのに、また足が地面に着くのです。

仲間を見送ることとなった田中三也さん

明朝の出撃を待つばかりとなった夜中に空襲がありました。

あまりにもひどかったため、田中三也さんは防空壕へと避難します。

若い連中が「飛行場へ見に行ってくる」と言って様子を見に行きました。

戻ってくると「飛行機がいない」と言います。

つまり、特攻の飛行機が燃えて大破しているのです。

その結果、田中三也さんは特攻に出撃することができなくなってしまいました。

明けの日に、田中三也さんは1人乗りの零戦の後ろへ潜り込むことを考えていました。

しかし、指揮官は懇々と「命を大事にしろ」と言われたそうです。

本来、自分も飛び立つはずだった朝の特攻隊の出撃の際、見えなくなるまで手を振ったそうです。

それはまるで、自分を送る気持ちだったと語っています。

今でも田中三也さんは生きていますが、仲間のみんなは20歳そこそこで死んでいます。

みんなは日本のために、国民のために戦ってくれたと感謝し、機会があったら俺も行くと思いながら、台湾からの迎えの船に乗って帰ってきました。

若者たちへ…昭和の英雄より

自分でこれをやろうということを本気で何かをやれるものを掴んでほしい。

山登りでも釣りでもダンスでもなんでもいい。

俺はこれをやってやろうというものを、早く見つけて最後までそれをやり通してほしい。

私はここまできたから、1日でも早くあの世にいって皆に会いたい。

親に会いたいとかではなく、友達に会いたい。

みなさんも元気でやってください。

最期のバレーボール

出撃の前に部下に思い残すことはないかと尋ねました。

その時「バレーボールの決着がついていません」と言われます。

その時、最期 (●●) に撮った写真はみんな笑顔で写っています。


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