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令和元年5月1日 (水) 井上和彦 × 藤井厳喜

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新天皇陛下がご即位 「令和」に改元

剣璽 (けんじ) 等承継の儀 (2019/5/1)


即位後朝見の儀 (2019/5/1)

日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。

この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。

顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。

上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。

ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。

藤井厳喜さん
藤井厳喜さん
昭和から平成に移った時は、天皇陛下の崩御があるので微妙な心理がありました。

国民が気持ちをそろえて新しい時代を迎えることができました。

そのため、今回は改元には嬉しいものがありました。

これは、皇室がある日本のありがたさだと思います。

井上和彦さん
井上和彦さん
つくづく、日本人でよかったと思いました。

この様な天皇陛下を頂いた、我々は幸せだと感じました。


三菱重工など日本企業9社を追加提訴 韓国人54名

訴訟を起こしている韓国人のほとんどが遺族

今回の訴訟は54名の韓国人で起こしています。

しかし、その内の51名は遺族です。

つまり、実際に当時働いていた原告の韓国人はたった3名しかいません。

井上和彦さん
井上和彦さん
まだ、やってたんですね? まだ、あるんですか?

もはや、飽きれて物が言えません。

もはや後戻りはできない文在寅大統領

歪な状態とわかっていても、今まで続いていた日米韓の連携で極東アジアの平和が続いていました。

そのため、韓国の文在寅 (ムン・ジェイン) 大統領といえども、どんなに北朝鮮にラブコールを送っても戻ってくるのではないかと思った専門家もいました。

なぜなら、安全保障という観点から考えると、日米との連携を韓国が捨てることは韓国のためにならないと思っていたからです。


昭和の英雄が語る ~大東亜戦争・偉大なる記憶~


1928年 (昭和3年) 2月生まれの小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんは、1945年 (昭和20年) 2月に占守島 (しむしゅとう) で防衛の任務に就きます。

占守島の戦いの後、シベリアに抑留された経験をお持ちの方です。

小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんは九五式軽戦車に乗って戦っていました。

九五式軽戦車はとてもいい戦車だったと、感想を述べられています。

なぜなら、九五式軽戦車に命中した弾は破裂することなく、突き抜けていくからです。

弾が当たったにもかかわらず突き抜けていく理由は、装甲が約12mmと薄く作られていたからです。

そうすることによって、九五式軽戦車の中に入っている人間、もしくは重要な機器に撃ってきた弾が当たらない限り、そのまま進み続けることができるからです。

この内容はアメリカ軍の資料にも残されています。

「日本軍の戦車に撃った弾が当たっているはずなにの、後ろの土手で爆発する? あれは幽霊か?」

などと、驚いていました。

48回戦争体験を正しく伝える会「英霊からの伝言」① 2014年8月23日


占守島の戦い 勃発

1945年 (昭和20年) 8月15日の終戦後、一発か二発の弾の音がしました。

問い合わせてみると、ソ連領のロパトカ岬付近にソ連の輸送船が座礁して置いてあることがわかりました。

おそらく、それを目掛けて撃っているだけなのだと思っていました。

ただ、戦争が終わったから遊んでいるにすぎないと思い込んでいたのです。

小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんがそう思った根拠は『日ソ中立条約』でした。

日本はソ連との条約を守って、一切ソ連の戦艦には手を出したことはありませんでした。

そのため「ソ連は絶対にこない」と思っていましたが、それは日本側の一方的な考えにすぎませんでした。

8月17日夜中、ソ連軍の襲撃

8月17日午後11~12時までの時間帯にもかかわらず、弾着音や破裂音が聞こえてきました。

小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんは「遊びにしてはずいぶん撃ってくるな」と不思議に感じていました。

そう思いながら、寝込んでいたら、午前3時前くらいに非常呼集がかかりました。

「敵襲だ! 非常呼集!」

小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さん状況が飲み込めませんでした。

なぜなら、すでに戦争は終わっているからです。

海賊かと思って「敵襲って何だい?」と聞くと、中隊長が言います。

「只今、敵襲があって国端崎である占守島の最北端に敵が上陸したらしい。」

それからすぐに、出撃しました。

兵器である戦車には爆薬である砲弾は約100発、機関銃弾は約5,000~6,000発積んでいたため、いつでも戦闘可能な態勢でした。

九五式軽戦車の中で小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんのポジションは、大砲の下に位置する機関銃手を担っていました。

その時、全部で約25両だったそうです。

敵は四嶺山の周りに点在していたため、連隊長を先頭にしてすぐに突っ込んでいきました。

小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんは葉っぱで前が見えない中、上にいる車長が急に撃ちだしました。

「どうして撃たないんだ?」と言われましたが、「敵が見えません!」と返します。

すると「目の前、敵でいっぱいだ! すぐに撃て」と命令されます。

小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんが見えなかった原因は戦車の中から外の景色が見渡せる位置の違いでした。

車長は上部にいるため敵が見えていましたが、小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんの位置の高さでは葉っぱで隠れて見えなかったのです。

従来だと点射で撃つのですが、それでは間に合わないため連射で撃てと言われました。

しかし、連射で撃っていると20発の弾倉を撃つと数秒で尽きてしまいます。

それでも、連射しながら草原へと出ると敵は隠れてしまっていなくなっていました。

とにかく、小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんは機関銃の掃射で忙しくて、途中で機関銃が故障すると直すこともやっていたため、周囲のことを見ている余裕はありませんでした。

その間、周囲の様子を操縦手がよく見ていました。

「今、あそこで日本軍の手をあげた人間が数珠つなぎで連れていかれた。」

「ロープでつながれてズボンのベルトを外されたからズボンが落ちて歩けなくて、手でズボンをあげながら海岸まで連れていかれた。」

「今、並ばせられた。撃たれて倒れた。」

などと、教えてくれたそうです。

それを今になって冷静に考えると、戦闘をやっている時の気持ちというのは異常だったと振り返られております。

血みどろの激戦 結末・・・

小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんと同じ戦車に乗っておられた車長は宮澤曹長でした。

宮澤曹長は砲手としての腕前は中隊の中では1、2を争うくらいの腕の持ち主でした。

目の前からどんどん敵が攻めてくるのを「前方何時の方向!」と指示して弾を撃ちました。

敵は600~800mの離れた距離にいましたが、百発百中で命中していたそうです。

しかし、弾切れになったことがありました。

そんな時、10~15m先に指揮班長車が全員負傷していたため撃たない状態で戦車が残っていました。

宮澤曹長と一緒に戦車へと向かい、小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんは下で弾を受け取りました。

宮澤曹長が20発ぐらい下ろした時、宮澤さんが転げ落ちると口から血を吐きました。

実は、宮澤曹長は敵の弾が当たって貫通していたのです。

急いで、応急措置をしてなんとか戦車に戻りました。

その時、今後は役割を交代し小田さんが主砲を担当し、戦闘に戻ったそうです。

戦闘の終結を告げられた時の気持ち

21日に停戦、23日に武装解除されました。

小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんは「撃ち方止め」と言われた時、それこそ悔しかったそうです。

なぜなら、ソ連は日本に対して恩を仇で返したような仕打ちをしてきたからです。

いつでも打てるように引き金に手をかけていたにもかかわらず、北部軍司令部からの命令で戦闘を終結さざる得ませんでした

その理由は、「戦闘終わっている日本人の生命の保証しない」と言われたからでした。

つまり、ここで戦闘を続けたら満州で降伏した兵隊や樺太の日本人の方がどれほど被害を被るか、わからなかったからです。

もし、そのことがなかったらあのまま突っ込んで行った戦車も、いたかもしれなかったそうです。

ここで注目したいのは、日本軍とソ連軍の死傷者の数です。

日本軍の死傷者は約300名に対して、ソ連軍の死傷者は約3,000名

この強さを実感してから、とてもじゃないが北海道まで攻め込むことはできないと、思い知らされたのです。

英雄 池田末男連隊長

第十一戦車隊の連隊長として有名な池田 (いけだ) 末男 (すえお) 大佐がいました。

出撃する前、軍隊を鼓舞した最期の訓示が有名です。

諸子はいま

赤穂浪士の如く恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか

あるいは白虎隊のように玉砕もって

日本民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか

赤穂浪士たらんものは一歩前に出よ

白虎隊たらんものは手を上げよ

赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ

白虎隊たらんとする者は手を上げよ

『戦車第十一聯隊史』

 
そして、旅団の両司令部に最期となる次の内容の打電を送ります。

「連隊はこれより敵中に突撃せんとす。祖国の弥栄と平和を祈る。」

池田末男大佐は愛知県出身だったと言うことで、三ヶ根山 (さんがねさん) に慰霊碑が残されています。

池田末男大佐からの勧誘

戦車兵学校から届く考課表を見た池田末男大佐から、直々に小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんへと声がかかったことがあるそうです。

「小田を俺のことに寄こせ。」

その時、当時の中隊長が次ぎの様に告げました。

「連隊長の戦車に乗りたいんだったら言え、俺に遠慮なんてしなくていいぞ。」

すぐにでも行きたいという感情にかられ、思わず手をあげかけました。

しかし、せっかく中隊の人の名前もやっと覚えた、仲良くなれた頃でした。

そのため、小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんは他に行くのは考えられなから、断ってくださいと伝えました。

その後、池田末男大佐の最期の姿を目撃する時がありました。

池田末男大佐の最期の勇姿

2回目に突撃する時、池田末男大佐は軍服を脱いでYシャツ姿で階級章も何つけていませんでした。

他に、身に着けていたのは、日の丸のついたハチマキをして、手には小旗の日章旗を持って進んでいきました。

その勇姿を見た時「連隊長は死ぬ気だ」と悟りました。

その時の心境を振り返ると、「あの連隊長の操縦手になればよかったな」と思ったそうです。

しかし、そうやって戦ってくれた兵士たちに、かけたい言葉は次のものです。

「本当にご苦労さんでした。あの時、俺は征きそびれたおかげで命永らえているけれどもあの時のあなたたちの気持ちを何とか伝えるまで長生きしていこうと思う。その一念で生きている。」


若者たちへ…昭和の英雄より

昔だって今だって若い者の気持ちは同じだと思います。

国のためなんて思わなくていい。

ただ、身近に困っている人がいたら助けるっていう気持ちが大きくなると、国のためになるのです。

何とか、みんな幸せを願った良い国になるよう頑張って下さい。

陸上自衛隊 戦車部隊の識別帽


【士魂】の【士】は分解すると【十一】になります。

小田 (おだ) 英孝 (ひでたか) さんは陸上自衛隊でこの帽子をいただいた時、もう一度戦地に赴きたいと思われたそうです。

もし、敵が上陸したら捨てるような戦車でもいいから、動く戦車に乗りたい。

どうせ残り少ない命なんだから、爆薬でも積んで突っ込んで行く。

そういう役目でもさせてもらいたいと思う気持ちが、十分にあります。



日米韓、ソウルで防衛実務協議へ

井上和彦さん
井上和彦さん
これって協議を開く意味ってあるんですかね?