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平成30年12月19日 (水) 井上和彦 × 藤井厳喜

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防衛大綱 護衛艦の「空母化」明記

中国政府 防衛大綱に「強烈な不満」

藤井厳喜さん
藤井厳喜さん
中国の報道が怒っているということは、日本は正しい政策をやっているという何よりの証拠ですね。
井上和彦さん
井上和彦さん
中国が強烈な不満を持ってくれたということは、非常にスバらしい。

ついに、日本がステルス戦闘機【F-35】を105機取得へ

政府は最新鋭のステルス戦闘機を取得することを閣議で了解しました。

今回、新たに取得するステルス戦闘機は【F-35】を105機です。

将来的に【F-35】は計147機の体制となります。

新たに取得する【F-35】の105機は【F-15】のうち改修が困難とされる99機分の代替機とされます。

この105機の内訳は2種類のタイプに分かれます。

【F-35A】CTOLタイプ

105機の内63機は【F-35A】で通常離着陸が可能です。

英語ではCTOLタイプ (Conventional Take-Off and Landing) と呼ばれます。

順次取得を進めていく方針で、既に一部は『中期防衛力整備計画』に盛り込まれています。

既に【F-4】の後継として42機の「F-35A」の配備が進んでいます。

【F-35B】STOVLタイプ

残りの42機は【F-35B】で短距離離陸・垂直着陸が可能です。

英語ではSTOVLタイプ (Short Take-Off and Vertical Landing) と呼ばれます。
事実上の空母化となる護衛艦「いずも」改修後の搭載が想定されている。

空母の生みの親は習近平!?

日本にむけてミサイルが撃ってきたら、それを撃ち落とすために戦闘能力は必要になります。

そして、そのミサイルを撃ってきた基地に対して、敵基地攻撃能力を使って攻撃することは立派な専守防衛です。

藤井厳喜さん
藤井厳喜さん
基本的に言えば専守防衛という基本政策に反対です。

軍事学的には専守防御はあっても専守防衛はありません。

空母「いぶき」の重要性

日本の排他的経済水域は世界第6位と言われるくらい海で囲まれた国です。

そのため、今回の「いぶき」の決定は今まで望まれていたことです。

何も、戦時の時にだけ活躍するものではありません。

なぜなら、平時の時は災害派遣に使われるからです。

十分なベッドの数や集中治療室もあるため、病院船としの役割も果たしてくれます。

日本が空母を持つことに踏ん切りをつけさせたのは中国の軍拡である。


『防衛計画の大綱』のポイント5つ

今回の決まった『防衛計画の大綱』のポイントは以下の5つがあります

  1. 【F-35B】導入
  2. 「いずも」空母化
  3. 宇宙・サイバー・電磁波
  4. 統合ミサイル防空能力
  5. スタンド オフ ミサイル

宇宙・サイバー・電磁波

現在は自衛隊の施設が攻撃を受けた時の防御システムになっています。

しかし、一般の交通機関が狙われたらどうするのかなども盛り込んで考えないといけません。

それに、日本においてサイバーはまだまだ力を入れないといけない分野です。

サイバーはやられているとこに気が付かないので、特に注意しないといけません。

統合ミサイル防空能力

最新のミサイル防衛は「統合ミサイル防空能力」に進んでいます。

「統合ミサイル防空能力」とはIAMD (Integrated Air and Missile Defense) と呼ばれ、次の2つを統合したものを指します。

 弾道ミサイル防衛

「弾道ミサイル防衛」
BMD (Ballistic Missile Defense)

 巡航ミサイル防衛

「巡航ミサイル防衛」
CMD (Cruise Missile Defense)

スタンド オフ ミサイル

敵の射程外から発射できる長距離ミサイルのことを「スタンド オフ ミサイル」と言います。



旭日旗想起 学校壁画消去の決定を保留 ロス

井上和彦さん
井上和彦さん
本当に「ふざけるな!」と言いたいですね。


ファーウェイ 日本企業から部品調達 総額6,800億円

日本企業には安全保障感覚が欠如している?

世間的にはアメリカがファーウェイ (Huawei ) :華為技術に対する制裁に「けしからん」と発言する日本人がいます。

それは一体なぜなのでしょうか?

その様な論調になるのは、日本から6,800億円もの商品を買っていただいているという考えがあるからです。

藤井厳喜さん
藤井厳喜さん
一番の問題は、ファーウェイごとき会社に、日本の企業が下請け化していたことです。

Made in China 2025

2018年見通しでは6,800億円の売上がたつと報道されています。

しかし、この様な売り上げは近い将来はどうせなくなるのです。

なぜなら、中国は『Made in China 2025』という政策を打ち立てています。

この政策の中身として、部品は全て国内化すると宣言しているのです。

つまり、技術を全部盗んで全部国産にすると中国が発表しているのです。

日本は中国に技術を盗まれるためにやっている様なもの。

2011年 (平成23年) にはアメリカの国防総省がファーウェイとZTE:中興通訊 (ちゅうこうつうじん) の背後には中国の軍部があると発表しています。

日本の国益を考える会社であれば、その様な会社と取引をしないことが本来のあるべき立場ではないのでしょうか?

井上和彦さん
井上和彦さん
日本の企業は拝金主義で安全保障の感覚がない。

日中平和条約で中国からきたのはパンダとトキだけ。

一番、悪いのはオバマ大統領

しかし、ここまでファーウェイが世界中に拡散することを傍観していた人物がいます。

その人物とはアメリカのバラク (Barack) オバマ (Obama) 元大統領です。

脅威であることを把握しておいたので、ある意味、一番悪い人物だとも言えます。

しかし、なぜオバマ氏はファーウェイが拡散するのをほったらかしにしておいたのでしょうか?

オバマ元大統領と新関筋の関係

オバマ氏のお母さん違いの弟は中国でずっと暮らしていたことは有名なことです。

つまり、親戚筋を通じて中国から何かの援助を受けていたと考えられます。



昭和の英雄が語る ~大東亜戦争・偉大なる記憶~


堀江正夫さん103歳の偉大なる記憶

堀江 (ほりえ) 正夫 (まさお) さんは1937年 (昭和12年) に陸軍士官学校を卒業されています。

1938年 (昭和13年) 歩兵少尉・歩兵第11連隊補充隊に付き、志那事変に参加

その後、歩兵第11連隊中隊長に昇格

1943年 (昭和18年) 第18軍参謀としてニューギニアの戦いに参加

1945年 (昭和20年) 陸軍少佐で終戦

1954年 (昭和29年) 7月 陸軍自衛隊入隊

1973年 (昭和48年) 3月 西部方面総監・陸将で退官

【特別鼎談】大東亜戦争を考える[桜H25/8/10]


百歳を生きて 在京日南の会 堀江正夫先生講演 平成27年

ジャワの極楽
ビルマの地獄
死んでも帰れぬニューギニア

「死んでも帰れぬ」ニューギニアの戦い


日本兵にとってはとても過酷だったといわれるのが、パプアニューギニアにおけるニューギニアの戦いでした。

この場所での開戦は太平洋戦争の開戦とほぼ同じです。

太平洋戦争は1941年 (昭和16年) 12月8日に始まり、ニューギニアの戦いはその直後の1942年 (昭和17年) 3月7日に開戦しました。

そして、この戦いは終戦を迎える1945年 (昭和20年) 8月15日まで続きました。

ここまで日本軍が南下し進出していったことに対して、無駄だったと考える人もいます。

しかし、太平洋戦争におけるニューギニアの戦いは日本軍にとってどうしても必要な戦場でした。

なぜなら、アメリカとオーストリアである米豪分断のためにどうしても必要な戦場だったのです。

ラバウルの戦い

まニューギニアの戦いの前に、1942年 (昭和17年) 1月23日~2月にかけて戦った、ラバウルの戦いから始まりました。

パプアニューギニアのラバウル (Rabaul) という地理的条件はラバウル航空隊は前哨の航空基地として使うために、日本軍にとってはどうしても重要な場所でした。

《軍歌》ラバウル海軍航空隊

ポートモレスビー作戦

1942年 (昭和17年) 3月7日〜1943年 (昭和18年) 1月23日にかけて行われた作戦が、ポートモレスビー作戦でした。

パプアニューギニアの首都であるポート (Port) モレスビー (Moresby) に日本軍が進んでいきました。

結果的には日本が情報戦よって負けた戦いでもありました。

引き際を間違えて、補給がされない状態で無理して戦い続けたことも敗因の1つです。

日本軍は米豪分断に向けて、オーストラリアを圧迫するためポートモレスビーを目指します。

しかし、自然環境は劣悪そのものでした。

湿地帯、ジャングルの熱帯地域の中を進まないといけないため、マラリアの危険性もあります。

しかも、乾季の時には数メートルの川が雨季になると数十メートルの川になってしまいます。

敵との戦いはもちろんですが、自然環境と疫病との戦いでもありました。

ラエ・サラモアへの進撃

初めの頃、部隊は全部ウェワク (Wewak) にいました。

この場所から、ラエ (Lae) サラマウア (Salamaua) へ目指して進んでいきます。

この距離を日本で例えると、ウェワクが名古屋とすればラエやサラモアは仙台になります。

その距離なんと約600kmも離れている区間を、歩いて移動しないといけないのです。

当然、その間に日本兵の体力は損耗してしまいます。

なぜなら、食べるものがないからです。

ニューギニアの作戦の全部の部隊が約15万名いましたが、13万人が死んでいます。

その約60%の死因は餓死です。

人間というのはこんなに細いのかと思うほど骨と皮だけになりました。

なぜ、食料の補給がされないかと言えば、制海権と制空権をとられているためです。

そのため、飛行機や船で支援することができなかったのです。

週に1回だけ糧食 (りょうしょく) がもらえるといっても、飯盒 (はんごう) に2勺とか5勺だけでした。

日本兵がどんどん倒れていく中、敵は大砲で陣地に対して攻めてきます。

日本兵は陣地にへばりついて頑張って戦います。

敵がいよいよやってくると、何とか立ち上がって防戦していました。

敵から撃ってくる銃弾を防ぐために作った掩蓋 (えんがい) も、どんどん壊れていきます。

その壊れた、掩蓋を作り直すために使ったのが死んだ仲間の遺体でした。

そこから撤退することが決まりました。

しかし、もはや歩いて撤退する体力は残って仲間もいます。

しかし、まだ意識だけはしっかりしている仲間が、撤退する仲間に告げました。

一緒にいけないけれども、俺たちがあとは頑張っているよ。

つまり、自分たちが盾になると言っているのです。

撤退する時にそういう仲間が、何人も残って戦ってくれました。

連合軍の追撃してくることを意識しながら撤退しますが、その追撃が約1週間止まったそうです。

まさしく、仲間が逃げるために、残った仲間は人柱になって仲間を助けてくれました。

決死の覚悟で挑んだアイタペの戦い


1944年 (昭和19年) 7月10日~8月上旬にかけて戦ったのが、アイタペの戦いです。

死を覚悟した時には家族のことを思う

いよいよ、これで死ぬぞと覚悟した状況が1度だけあるそうです。

それは、第一線の方から一時的にウェワク (Wewak) に帰って来た時でした。

飛行場の方に司令部があってそこに連絡にいこうと思って、司令部から外に出た時に上を見上げました。

空の上にB-17の27機編隊が西の方から飛んでくるのが見えました。

その瞬間、この飛行場を爆撃するかと思ったら、そのまま東に通り過ぎて行きました。

その間に飛行場を突っ切ろうかと飛行場の中に入り込んでいきました。

ちょうど、真ん中の辺りまで進んでふと上を見上げると、さっきの飛行機がそのまま引き返してきたのが見えました。

途端にバラバラと爆撃を一発一発どんどん落としてきます

その瞬間、堀江正夫さんは恥ずかしながら「しまった」と言ってしまいました。

なぜなら、その時に頭に思い浮かんだのが奥さんと生まれたばかりの息子さんの姿だったからです。

その後、「ああ、こりゃいかん」と思って次の言葉を、一生懸命に唱えます。

「天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!」

すると、爆弾は自分を越して、後ろの方に落ちていきました。

井上和彦さん
井上和彦さん
戦っている間、堀江さんを支えたのは一体なんだったのでしょうか?

軍人として、国民として、いざという時に国のために死ぬのは当たり前です。

これが、ひとつの大きな思いでした。

同時に家族です。

恥ずかしい話ですけどあれだけ、国のために天皇陛下のために死んだと決めていても、いざという時には家族のことを思います。

最後のアイタペの作戦


アイタペの戦いの時、歩兵連隊は1,000名を切るくらいしか兵力がありませんでした。

もはや、食べるものがない中、100名くらいになるまで頑張り抜きました。

堀江正夫さんはアイタペ作戦の時には後方部隊の担当をし、部隊が物資を順調に運べるように管理や監励する任務に就いていました。

この後方部隊の仕事の役割は物資を前線に運ぶことです。

ウェワクに若干の食糧や弾薬が残っていたため、アイタペまで運ばないといけません。

ウェワクが名古屋だとすると、アイタペが京都と約150kmも離れています。

まず、後方部隊を15地区に分けて物資運搬を展開しました。

ところが、1つの区域に物資がたまってしまい前に物資が運ばれません。

そこに急いで駆けつけてみると、隊長以下の仲間が高熱を出してフーフー言って寝ていました。

しかし、他の部隊と交代する余裕はまったくありませんでした。

堀江正夫さんは心を鬼にして、その隊長に状況を説明し「何とかしてくれませんか」と頼みます。

高熱の中でうつらうつらしながら聞いていた隊長が、目を開いて「堀江さん、やりましょう」と言ってくれました。

そして、20kgの荷物を運んでくれたのです。

しかし、その作業中どんどん死んでいきます。

それを横目に頑張ってくれました。

それが後方部隊です。

散華していった戦友への思いとは・・・

井上和彦さん
井上和彦さん
部下、戦友、同期生の多くの方が散華 (さんげ) されて、今もし声をかけるとするとどんなことを伝えますか?

申し訳ない。

今の日本の状況、靖國神社に関する問題。

本当に申し訳ない、遺骨の問題もそうです。

もっとちゃんとしないといけない、国民として。

ですからこの年になっても厚生省に行ったり、新しい遺骨の収集の法律を作るために、一生懸命駆けずり回ったりしています。

なんとかして、早く御遺骨を一体でも多く持って帰っていただきたい。

今でも目を (つむ) ると亡くなった戦友の姿が、次々と浮かんできます。

僕は何とか息を引き取るまでに完全に解決しないまでも、解決への道筋をつけてから死にたい。

そうしないと、戦友や先に逝った先輩に対しても報告することができない、顔向けができません。

私なりに努力していますが、今の状況を見ていると諦めざるえないのかな・・・。

28年目の再会

パプアニューギニアの戦いでは原住民に人たちが本当によくやってくれました。

戦争中はもちろん、遺骨収集などで今でも協力してくれています。

日本軍の病人を家に収容して亡くなるまで面倒を見てくれた家を何軒も、堀江正夫さんは知っています。

戦後、昭和48年に堀江正夫さんは遺骨収集のためにパプアニューギニアへと向かいました。

その時にウェワクである男性と出会いました。

当時は少年と青年の間くらいだった原住民の男性が、一生懸命働いてくれているのです。

たまたま会いました

偶然の再開にお互いに抱き合ってお互い喜びました。

再び訪れた時のウェワクの状況は、戦争中の状況から比べるとずいぶん良くなっていました。

オーストラリアが統治してくれたおかげで、電気や水道もついたし、家も良くなりました。

堀江正夫さんは「オーストラリアからよくしてもらってよかったな」と声をかけました。

しかし、彼は次のように答えました。

それは違うよ。

オーストラリアはフレンドだけど、日本はブラザーだ。

だって、戦争中日本兵は我々と一緒に同じものを食べてくれたじゃないか。

一緒にごろ寝してくれたじゃないか。

日本人の場合は我々を本当に人間として扱ってくれた。

若者たちへ…昭和の英雄より

日本人という自覚を持っていただきたい。

我々の国を守るのは我々なんだ!

いざとなったらみんなが我々が力を尽くして、この国や伝統、我が兄弟や親族を守らないといけないのです

ただ、若い人たちが戦争や遺骨の問題やその他に非常に関心を持ってくれています。

この様に活躍してくれている人が増えていることに、大変に嬉しく思っております。

何とかそれが国民全員の気持ちになって欲しい。

最後の死ぬ前にあたっての切なる願いです。


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